月曜の思いから祈りへ

結城浩

1999年7月5日

毎日生活をしていると、いろんなことを考える。
仕事のこと、経済のこと、人間関係のこと、家族のこと。
と、いちおう書いてみたが、
私は生来、経済や人間関係のことはうとくてあまり頭が回らない。
その方面での本質的な苦労が少ないという恵みのゆえかもしれないが。
経済とか人間関係に関しては無頓着で間抜けなところが多い。

仕事のことはよく考える。いまやっている仕事はこうやろうとか、
前回の仕事はここがまずかったとか、次にはどんな仕事をしようかとか、
そういうことだ。それはわれを忘れるくらい楽しい。
でも月曜日はつらいときもある。エンジンがかかっていないからだ。
仕事に入ってしまえば(つまり、目の前に課題がやってくれば)
やるだけのことだから問題はないのだが、
仕事に入る前の漠然としたいやな感じ、がつらいのだと思う。

家族のこともよく考える。こちらの方は自分で「こうやろう」とは
あまり考えないことが多い。むしろ耳をすましていることが多い。
家内の言葉や行動、息子の言葉や行動をよく見て、
全体の音楽に耳をすましている感じがする。

不思議なもので、テーマは重層的に表現されるのだ。
家内の語る言葉、例えば友人の誰かがこう言ったとか、
今度の休みにはこれを買いに行きたいとか、
そういう非常にドメスティックな「物語」の中に、
現在の私の家が抱えているもっと大きなテーマが表現されていたり、
息子の最近の遊びの題材の中に、
私が仕事で悩んでいる部分への重要なヒントが隠されていたりする。

だから、何というか…人生は面白いのだ。

直面している問題を、
その字面だけでとらえてはまりこむというのはおうおうにしてあることだ。
つまりその問題を、その問題そのものとしてしかとらえられない状態のことだ。
もっとまずいのは、その問題に自分が漠然と考えている唯一の解決しかゆるされない状況。
これはとてもつらいことだ。
問題がある。自分はぼんやりと「こうでなくっちゃいけない」と思っている。
でもその「解決」は不可能だったりすることも多い。
そのいかんともしがたい束縛の中で苦しんでしまうのだ。

そんなときに必要なのは、私は別の視点だと思う。
自分でさっと視点を変えることができればそれはすばらしいことだが、
それは一般には難しい(簡単だったら誰も悩まない)。
祈ったり、人に相談したり、うさばらししたり、
わーわー言ったり、逃避したり、本を読んだり、旅に出たり、
髪を切ったり、さまざまなことをして、時には見苦しくもがいて、
何とか私たちはやっているのである。

私は、このつらくも面白い人生にあってまず大切なことは
「神さまとの関係」だと思っている。
つらいときに祈る。祈れないときに「神さま、祈れません」と祈る。
あやまちをおかしたときに「神さま、ごめんなさい」と祈る。
たしかにそのあやまちは何度も繰り返してしまうかもしれない。
けれどもあきらめずに祈る。
おかしたあやまちについては「神さま、ゆるしてください」と祈る。
そしてまだおかしていないあやまちについては「その誘惑から逃れさせてください」と祈る。
私はそれが、とても大切なことだと考えている。
祈るのは今、なのだ。

「祈りは気安めにすぎない」とか、
「神さまなんか存在しない」とか、
「祈って何が起こるっていうの」いう惑わしは無視していいのです。
(もちろんそういう主張をする人を憎んではいけませんが、
 そのような偽りの主張をあなたは受け入れてはいけません)

なぜって、神さまはいらっしゃるからです。
そして祈りこそ、神さまとの大切な交わりの場だからです。
クリスチャンにとって祈りは呼吸、
クリスチャンにとって聖書の御言葉は食事です。
霊が生き、霊が成長するためには呼吸と食事が大切なのはあたりまえのことです。
「呼吸は気安めにすぎない」という言葉を真に受けて、
呼吸を止めたら苦しくなって死んでしまうのは当然のことなのです。

ですから今日も、よく目を開き、よく耳をすまし、
自分が何を信じているのかをよく思い出し、
世の中にあるもの、自分の目や耳に入ってくるものをよく見分けて歩みましょう。
環境ホルモンや地球に優しい素材を見分けることも大事ですが、
霊的に健全なものを見分けることはもっと大事です。

聖書を読みましょう。神さまを賛美しましょう。
イエスさまの十字架を見上げましょう。
贖いの血の契約を信じ、救いの確信をますます強めましょう。
神さまからの愛をいっぱいに受け、それをまわりの人と分かち合いましょう。
自分を神さまに整えていただき、
まわりの人を受け入れましょう。
自分の罪は神さまに告白してゆるしていただき、
他の人からうけた恨みはイエスさまの十字架のゆえにゆるしてあげましょう。
今日という日は特別な日。神さまが作られた特別な日です。

自分のためではなく、神さまのために生きましょう。
自分のすべてを神さまに用いていただくとき、
自分のすべて、そしてそれ以上のものが神さまから与えられます。
自分のすべてを自分のために用いようとすると、
自分すら失ってしまいます。

この文章をお読みのあなたの今日が、そしてこれからの人生の毎日が、
主に満たされ、主に導かれるものとなりますように。
毎日が、
自由と驚きと発見と冒険と幸福と天与の愛と平安に満たされたものとなりますように。
イエスさまのお名前によって祈ります。
アーメン!