地境を広げる

結城浩

2002年4月15日

最近、プライベートな出来事や、ヤベツの祈りを通して「自分の地境を広げる」ということがどういうことなのか、考える機会が多い。

いままで自分が「苦手でもいい」「わからなくてもいい」と思っていた分野に対して、 自分が目を向けなければならない事態が起こっている。 確かにそれを自分に対する「困難」とみなすこともできよう。 あるいは人生における「苦労」とみなすこともできよう。 しかし、それもすべて、自分自身の見方に過ぎない、と思わされている。

自分が困難だと思えば、どんなことも困難になり、腰が引けてくる。

自分が苦労だと思えば、どんなことも苦労になり、ため息が出る。

しかし、カチリと気持ちを切り換えて、これもまた主の栄光が表されるためだ、と考えてみよう。 あるいはまた、神さまが神さまのなさり方で、私を教育しようとされているのだ、と考えてみよう。 人間にはできない方法で、神さまは私を育てようとなさっている、それほど神さまは私を愛していてくださるのだ、と考えてみよう。 そうすると、自分の視点が変わる。そうして自分のまわりの様子が変わる。そして世界が変わる。 もっともっと、私は自分の心を神さまに開いてよいのだ、とわかる。 心を主に開くべきだ、とわかる。

自分の罪を神さまに告白すること、それは大切。 人の罪をゆるすことも、それももちろん大切。 しかしそれを繰り返すだけではなく、 神さまが自分に与えようとなさっている祝福と恵みの人生の意味を、 もっともっと理解すべきなのかもしれない、と思う。

心を開いて、耳をすまして、神さまのなさるなさり方にしたがって(自分の小さな思い込みや、決め事に従うのではなく)、 自分の意識の地境を広げていただくのがよいのではないか。

年齢が加わるにつれ、自分がやってきた仕事に慣れるにつれ、 いままで自分がやってきたことの技術は高まっていくだろう。 しかし、そこにとどまるのではなく、 もっと新しいことに挑戦していくことも大切なのではないか。 神さまが示してくださる道を、勇気をもって踏み出すことも必要なのではないか、と思う。 いうまでもなく自分勝手に無謀に新しいことをはじめるというのではない。 無謀と勇気は異なる。 よく祈りつつ、鳩のように素直に、蛇のように賢く、神さまのいうことを聞いてそのとおりに進む姿勢が必要なのではないか、 と考えている。 挑戦というと大げさかもしれない。 「新しい種をまく」という方が近いかもしれない。

「自分の地境を広げる」ということが、私自身にとってどういう意味を持つのか、 まだ全貌がわかっているわけではない。 けれども、だいぶわかってきたところもある。 私はもっと、いろんなことについて祈り、考え、備えるべきなのだ。 きっとすぐに形にはならない。 でも、新しい一歩を踏み出しつつある自分を感じる。 『赤毛のアン』の「道の曲がり角」と似ているところもある。 新しい何かが、私の中で生まれ、育とうとしている。 神さまが、私の意識の地境を広げようとしてくださるのを感じる。

はからずも、春。

新しい季節のはじまりだ。

結城のこの日記を読んでいる方の中にも、 新しい学校、新しい会社、新しい仕事、新しい生活…に向かっている方がたくさんいらっしゃると思います。 その中には、もしかしたら一見困難に思える状況におちいっている方もいるかもしれません。 その方の上に、神さまの導きがいつもありますように。 「困難」のように思えても、それは、自分の意識や視点を変えるチャンスかもしれません。 あるいはまた、大きくはばたくきっかけになるかもしれません。 共に主に感謝しましょう。

主の御名を賛美し、イエスさまに大きく期待!