第2巻 内的な生活

キリストにならいて

目次

                          BOOK TWO

                      THE INTERIOR LIFE


第1章 瞑想(校正中)

「いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」(ルカ17:21) ということですから、あなたがたは、何事も包み隠さず主と向き合いなさい。 この乱れた世界に背を向けなさい。そうすれば、あなたの魂にはやすらぎに満たされるでしょう。 自分の外にあるものを遠ざけ,自分の内なるものを追い求めなさい。 そうすることによって、聖霊によってもたらされる平安とよろこびに満ちた主の御国を見ることができるのです。 そして、この主の御国は、不信心者には与えられることのないものなのです。

主は美しく栄光に満ちた心を喜ばれる方です。 心をととのえて主をあなたの中心に迎えなさい。 キリストがあなたを慰めてくださいます。 主があなたの内にきてくださる度に、霊的な交わりがより満たされ, 慰めに満ちたものとなります。 主にある平安が与えられ、 主と近く歩むことのすばらしさを実感することになるでしょう。

ですから、信ずる者は、主があなたの内において、中心となってくださるように備えなさい。 このことに関しては、イエス様ご自身もこうおっしゃっておられます。 「誰でも、わたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。 そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。」 (ヨハネ14:23)

あなたの中に主キリストをお迎えし、その他のものを閉め出しなさい。 キリストとともにある者は、豊かになり、キリストによって満たされます。 すべての必要なものは与えられるからです。望むものはすべて与えられるでしょう。 もはや、移ろいやすくおぼつかない人の心に頼る必要はありません。 キリストは永遠で、終わりのときまで私たちとともに確かにいてくださいます。

弱く、命に限りのある人間に過大な信頼を寄せてはなりません。 その人が、どんなに有益で、親しみやすくとも、です。 また、他人があなたに反対したり、意に添わないことを言ったとしても、 あまり嘆かないようにしなさい。人の心は風向きと同じように移り変わるものなので、 今日の味方は明日の敵であるかもしれず、またその逆もあり得るからです。 全幅の信頼は主におきなさい。主を恐れ,主を愛しなさい。 主はあなたの信頼に応えられ、あなたにとっての最善を行ってくださいます。

あなたにとって、この世には家はありません。 あなた方は、どこにあっても、異邦人であり,寄留者です。 キリストと完全に結ばれるまで、平安はありません。

この世には、あなたの休息所がないのに、どうして探しまわるのですか。 そうではなく、天に目を据え、この世の物にはちらりと見やる程度にしなさい。 この世のすべての物は消え去るのです。そして、あなた自身もまた消え去ります。 ですから、この世の物にしがみつかないように心がけなさい。 この世の物にしがみついていれば、あなたもそれらにとらわれて、 この世の物が消え去るときに,ともに滅びてしまうからです。 いと高きお方を見つめ、絶え間なくキリストに祈りなさい。

どのようにすれば、天について瞑想することができるかわからなければ、 キリストの受難について思いを馳せ、キリストの負われた聖なる傷をしっかりと見つめなさい。 キリストのおわれた傷とかけがえのない恥辱とに真心をもって向き合いなさい。 そうすれば、キリストの苦しみによっていやされ、他人からうけた軽蔑や中傷は、 とるに足りないこととなるでしょう。

キリストがこの世におられたとき、世の人々はキリストを憎みました。 キリストが困難にあったとき、知人はキリストを見捨て、友人は軽蔑を投げかけてキリストのもとから去りました。 キリストは、すすんで苦しまれ、すすんで憎まれたのです。 それを知ってもなお、あなたは不平をつぶやくのですか? キリストの周囲には、敵があり、キリストをおとしめようとする人々がいました。 それを知ってもなお、あなたは世の人すべてがあなたの友であり、 益をもたらす者であってほしいと願うのですか? 敵意によって試されることがなければ,あなたはどうやって忍耐を試すのですか? 困難を進んで受け入れずに、どうしてキリストの友となることができるというのですか? あなたが、キリストとともに在りたいと願うのであれば、 キリストと共に、そしてキリストのために苦しみなさい。

あなたが、一度でもイエスとの完全な交わりを経験するか、 または、燃えるようなキリストの愛の一部だけでも味わったならば、 自らの快適さや不便さを気にかけることはなくなるでしょう。 それどころか、キリストの愛を鑑みれば、自らを尊ぶ心はなくなり、 自分に向けられた非難を喜ぶようになります。

主と真実を愛し、また自分では制御できないような愛着を持たない真の内面的な人間は、 いつでも神に向かうことができ、自分の限界をこえて、精神的な平安を持つことができるのです。

人の言うことや考える通りにではなく、生きるということが本当にどういうことかを実感した人こそ、 人間の知恵ではなく、神の知恵を授かるのです。

内的に生きる術を習得し、外的なことに重きを置かない人にとっては、 デボーションを行うために、特別な場所や時間は必要でないのです。 御霊に満たされた人は、外的な要因に心を奪われることがないので、 どんなときでも直ちに集中することができるのです。 精神世界の外での仕事や用事がどんなに差し迫っていても、それに妨げられることはありません。 このような人は、どのようなことにも柔軟に対応することができます。 きちんとした心持ちをもった人は、奇妙であったり、ひねくれた他人の行動を気にすることはありません。 というのも、人は、外的世界に自らをさらせばさらすほど、腹を立てたり、妨げられることが多くなるからです。

万事が順調で、すべての罪からきよめられたときに、 すべては自らの益となります。しかし、人は、自我から完全に離れることができず、 またすべてのこの世的な物に対する愛着を断ち切ることができないために、 失望やいらだちを味わうことになるのです。造られた物に対して固執する不純さこそが、 人間の心をもっとも傷つけ,損なうのです。外からの慰めを拒絶なさい。 そうすれば、天への思いを深めることができ、内的な喜びに満たされるでしょう。

第2章 謙虚(途中)

あなたに味方する人についても、敵対する人についても、煩わされてはいけません。 しかし、神はあなたがするすべてのことであなたとともにあるように心を配りなさい。 あなたの良心をきれいにしなさい。 そうすれば、神はあなたを守ってくれるでしょう。 人の悪意は、神が助けたいと願う人を傷つけることはできません。 もし、あなたが沈黙の中で苦しむ方法を知っているなら、 あなたは疑いなく神の助けを経験するでしょう。 神は、いつどのようにあなたを救うかをご存知だからです。 それゆえ、彼の手の中にあなた自身を置きなさい。 というのは、人々を助け、かつすべての苦痛から人々を解放することは神の特権だからです。

他人が私達の欠点を知り、それらを叱るということは、 私達にとって多くの場合良いことです。 というのは、それは私達に偉大な謙虚さを与えるからです。 人が自分の欠点のために謙虚な気持ちを持つとき、 彼の周りにいる人の怒りをたやすく静め、 そして彼に腹を立てた人をすぐになだめます。

神が保護し解放するのは謙虚な人である。 神が愛し慰めるのは謙虚さである。 その謙虚さに 彼は振り向きそしておおきな感謝の祈りを授ける。 それらの屈辱のあとに 神は屈辱を誇りにまで引き上げるかも知れない。 神はその謙虚さに神の秘密を打ち明け, そして やさしい招きがそれらを(誇り?)彼に訪れるように手を尽くす。 従って 謙虚な人は苦痛の真っ只中で平和を楽しむ。 何故なら彼の信頼は神の中にあり世界ではないから そういうわけで あなたは進歩するということを考えてはなりません あなたがすべての他のものより劣っているものとしてあなた自身を見つめるそのときまで。

第3章 Goodness and Peace in Man (まだ訳は未決定)Goodnessをどう訳すか

(メモ:段落区切り) 第一に、あなた自身のなかに平和を保ちなさい。 そうすれば あなたは他人にも平和をもたらすことができるでしょう。 心に平和を持つ人は、学識のある人よりも良いことをします。 激しやすい人は良いことですら悪に変え、しかもすぐに 悪を信じてしまうのですが、 心に平和を持つ人は、自分自身が善なので、全ての ことを善に変えます。 完全な安らぎの中にいる人はけっして疑いを抱くこともありません。 ですけれども 動揺して不平のある精神はたくさんの疑いによって取り乱します。 彼は自分で休息をとることもなければ、他人が休息することも許しません。 彼はしばしば言うべきじゃないことを言い、 やらなくちゃいけないことをほったらかしにします。 彼は他人の義務に気をつかいますが 自分の義務は怠ってしまいます。 ( concerned は、この文脈のニュアンスからだと、 いい意味で気をつかっているのではなく、 余計なお世話で首をつっこんでいる感じ ) ですから、あなたの熱意をまず、自分自身に向けなさい。そうすれば 今度はそれを、あなたの周りにいる人たちに対しても公正に行使できるでしょう。 ( 「熱意を行使する」という言い方はちょっとおかしいから、 zeal と exercise の訳語はもう少し考えてみる。 ) あなたは、他人からは受け入れないような言い訳を用いて自らの行動を言い繕うことに 長けています。 ( ここのcolor は、別の単語で言い換えると gloss over  または excuse ということ。gloss overとは、ごまかす/言い繕う/言い逃れをする/きれいごとを言う/ などの意味です。 well versed は「長けている」くらいに訳すといい ) しかし、自分自身を責め、兄弟を許す方がはるかに公正なことでしょう。 人々があなたに対して忍耐強くあることを願うならば あなたも彼らに対して忍耐強くあらねばなりません。 見なさい。あなたはどれだけ本当の愛と謙遜からかけ離れていることか。 本当の愛と謙遜は、誰に対しても腹を立てず、 自分に対する以外は、誰にも憤らないのです。

第4章 心の清さと目的の一致

人は二つの羽によってこの世の事柄から引き上げられます。 その二つの羽とは単純さと清さです。 人の意図は単純であるべきですし、 願いは清くなくてはなりません。 単純さによって神へと導かれ、 清さによって神を受け入れ楽しむことができるのです。

あなたの心がかき乱されたような感情によって左右されることがないのなら、 あなたにとって良い行ないをなすことは難しくありません。 あなたが神を喜ばすことと隣人の益となることだけを求め、 それを目指すのであれば、あなたは心の自由を楽しむことでしょう。

あなたの心がきちんと整っていれば、 全ての被造物はあなたにとっての人生の鏡、また清い教えの書物となるでしょう。 なぜならば、神の慈しみを現せないほど小さくて価値のないものなど存在しないからです。 もしあなたの内面が善であり純粋ならば、 あなたは全てのものをはっきりと見、また正しく理解するでしょう。 清い心は天国と地獄にまで届くものであり、 人は外側にあるものを内側にあるもののように判断するからです。 もしこの世に喜びがあるとしたら、 それを持つのは心の清い者に違いありません。 もしどこかに苦悩や苦痛があるのなら、 邪悪な心はいやになるくらいそのことを知っているものです。

火のなかに投げ込まれた鉄がその錆を失って白く輝くように、 完全に神のほうを向く人は、不精さをはぎとられ新しい人へと変えられます。 人はだらけ始めると、ほんの少しの労苦も恐れ、 外的な慰めを喜ぶようになります。 しかし自らを完璧に制し、神の道を勇敢に歩むようになると、 以前は困難だと思ったようなことですら、 もうあまり難しいと思わなくなります。

The Fifth Chapter

                      The Fifth Chapter

                          Ourselves

WE MUST not rely too much upon ourselves, for grace and
understanding are often lacking in us. We have but little inborn
light, and this we quickly lose through negligence. Often we are
not aware that we are so blind in heart. Meanwhile we do wrong,
and then do worse in excusing it. At times we are moved by
passion, and we think it zeal. We take others to task for small
mistakes, and overlook greater ones in ourselves. We are quick
enough to feel and brood over the things we suffer from others,
but we think nothing of how much others suffer from us. If a man
would weigh his own deeds fully and rightly, he would find little
cause to pass severe judgment on others.
     The interior man puts the care of himself before all other
concerns, and he who attends to himself carefully does not find it
hard to hold his tongue about others. You will never be devout of
heart unless you are thus silent about the affairs of others and
pay particular attention to yourself. If you attend wholly to God
and yourself, you will be little disturbed by what you see about
you.
     Where are your thoughts when they are not upon yourself? And
after attending to various things, what have you gained if you
have neglected self? If you wish to have true peace of mind and
unity of purpose, you must cast all else aside and keep only
yourself before your eyes.
     You will make great progress if you keep yourself free from
all temporal cares, for to value anything that is temporal is a
great mistake. Consider nothing great, nothing high, nothing
pleasing, nothing acceptable, except God Himself or that which is
of God. Consider the consolations of creatures as vanity, for the
soul that loves God scorns all things that are inferior to Him.
God alone, the eternal and infinite, satisfies all, bringing
comfort to the soul and true joy to the body.



The Sixth Chapter

                      The Sixth Chapter

                The Joy of a Good Conscience

THE glory of a good man is the testimony of a good conscience.
Therefore, keep your conscience good and you will always enjoy
happiness, for a good conscience can bear a great deal and can
bring joy even in the midst of adversity. But an evil conscience
is ever restive and fearful.
     Sweet shall be your rest if your heart does not reproach you.
     Do not rejoice unless you have done well. Sinners never
experience true interior joy or peace, for "there is no peace to
the wicked," says the Lord.[10] Even if they say: "We are at
peace, no evil shall befall us and no one dares to hurt us," do
not believe them; for the wrath of God will arise quickly, and
their deeds will be brought to naught and their thoughts will
perish.
     To glory in adversity is not hard for the man who loves, for
this is to glory in the cross of the Lord. But the glory given or
received of men is short lived, and the glory of the world is ever
companioned by sorrow. The glory of the good, however, is in their
conscience and not in the lips of men, for the joy of the just is
from God and in God, and their gladness is founded on truth.
     The man who longs for the true, eternal glory does not care
for that of time; and he who seeks passing fame or does not in his
heart despise it, undoubtedly cares little for the glory of
heaven.
     He who minds neither praise nor blame possesses great peace
of heart and, if his conscience is good, he will easily be
contented and at peace.
     Praise adds nothing to your holiness, nor does blame take
anything from it. You are what you are, and you cannot be said to
be better than you are in God's sight. If you consider well what
you are within, you will not care what men say about you. They
look to appearances but God looks to the heart. They consider the
deed but God weighs the motive.
     It is characteristic of a humble soul always to do good and
to think little of itself. It is a mark of great purity and deep
faith to look for no consolation in created things. The man who
desires no justification from without has clearly entrusted
himself to God: "For not he who commendeth himself is approved,"
says St. Paul, "but he whom God commendeth."[11]
     To walk with God interiorly, to be free from any external
affection - - this is the state of the inward man.

[10] Isa. 48:22.
[11] 2 Cor. 10:18.

第7章 何よりもまずイエスを愛すること(校正中)

イエスを愛することとはどういうことかをよく知っている人、 イエスのゆえに自分自身を蔑む人は幸いです。 神の愛のゆえに他の全ての愛を捨て去りなさい。なぜなら神は ご自分がまず何ものよりも一番に愛されることを望まれるからです。

被造物への愛情は、欺きに満ち、移ろいやすいものです。しかし イエスの愛は真実でいつまでも変わることがありません。 被造物にしがみつく者はその弱さのゆえに倒れるでしょう。 しかし自らをイエスに捧げる者は、いつまでも強められるのです。

ですから、イエスを愛しなさい。イエスを友としなさい。 イエスは他の人たちのようにあなたから離れることはありません。 あなたをいつまでも苦しめることもありません。(?) あなたが望むと望まざるとに関わらず、いずれ、全てのものから離れなくては ならない時が来ます。ですから、命においても死においても、ただ イエスにしがみついていなさい。ただ主のご栄光に自らを委ねなさい。 他の全て人があなたを裏切っても、このお方だけはあなたを助けることが出来ます。

あなたが愛するお方は、あなたの愛を独占することを願うお方です。 あなたの心がただこのお方だけに向けられ、あなたの心のなかの王として 着座されることを願われます。そのように扱われるにふさわしいお方だからです。 もしあなたが自分自身をその他全ての被造物から完全に解き放つ術を 知っているのであれば、イエスは喜んであなたのなかに住んでくださるでしょう。

イエス以外の人に信頼を置くことは、まず間違いなく完全な 無駄であることをあなたは学ぶでしょう。ですから、風に吹かれる 葦を信頼したり頼るのはやめなさい。「すべての人は草に等しく」(イザヤ15:6) その栄光は、草花のように消えてなくなってしまうからです。

人の外側だけを見るのであれば、簡単に騙されます。人のなかに 慰めや利得を求めるのであれば、往々にして失望させられるでしょう。 しかし、全てのものごとのなかにイエスを求めるのであれば、 必ず彼を見いだすでしょう。同じように、自分自身を探し求めるのであれば、 自分のことも見いだすでしょう。しかしそれはあなたにとって 益となりません。イエスを求めないことほど、自分自身に対して 損害をもたらすことはありません。世界中の全ての敵が束になっても それほどまでにあなたに害を加えることは出来ません。

第8章 キリストと親しく交わること(校正中)

 イエス・キリストがおそばにおられるならば、すべては上手くいきます。困難にみえることは何もありません。もし、キリストがおそばにおられなければ、すべては困難です。キリストが、心のうちから語りかけておられないのならば、他の楽しみはすべて空しいことでしょう。しかし、キリストが一言でも、み言葉を発せられれば、大いなる慰めとなります。

 マルタが次のように言うことで、マグダラのマリアは、嘆きからただちに立ち上がる力を得たのではありませんでしたか。「主がおいでになって、あなたを呼んでおられるではありませんか。」([13]ヨハネ11:28.)幸せが訪れる時とは、イエスが、人々を嘆きの底から救い出し、魂が歓喜するところへと導く時です。

 イエス・キリストなしでは、なんとあなたは乾いた、気難しい心をもつことでしょう。キリストがおられないなら、何を望もうと馬鹿らしく、空しいこと。全世界を失う以上の損失ではありませんか。キリストがおられないなら、世界があなたに何を与えることができるというのでしょう。キリストがおられなければ、人生は残酷な地獄と同じこと。しかし、キリストと共に生きれば、人生は、甘い楽園での暮らしと同じになります。もし、イエス・キリストが共におられれば、どんな敵もあなたを傷つけることはできません。

 キリストの存在を見出した者は、世にもまれな宝物や、全ての善なるものを越えた善を見出した者。キリストを失った者は、全世界を失った以上のものを失った者。キリストなしに生きる者は、貧困な者の中でも最も貧なる者。キリストの恵みの中で生きる者ほど、豊かな者はいません。

 キリストとの語らい方を理解することは、大切なことです。キリストを我が身のそばにとどめておくやり方を理解することは、賢明なことです。謙虚で安らぎに満ちた心でいなさい。そうすれば、キリストはあなたと共におられるでしょう。信仰篤(あつ)くありなさい、心穏やかでいなさい。そうすれば、キリストはあなたのもとにとどまられるでしょう。あなたが外の世界に引き返せば、キリストを追い払ったことになり、その恵みを失うことになります。もしそうなったら、あなたは誰のもとに赴き、誰を友として求めるのでしょう。友なしには、人はよく生きることができません。もし、他でもないキリストが、あなたの友でないなら、あなたは悲しみにつつまれ、見捨てられた惨めな状態となるでしょう。キリスト以外の者を信頼したり、他の何かを享受することは、愚かしい振る舞いです。キリストを敵とするよりも、全世界を敵とする道を選びなさい。あなたに親愛の気持ちをよせる人々よりも、キリストに、あなたの特別の愛を捧げなさい。キリストに益をもたらすために、全てのものを愛しなさい。しかし、キリストは、キリスト自身を対象として、あなたに愛されなければなりません。

 イエス・キリストは特別の愛をもって、あなたに愛されるべきです。なぜなら、友の中で、キリストのみが善であり、あなたに誠実でいてくださるからです。キリストのために、キリストの恵みにつつまれながら、あなたは、友人も敵も同じように愛さなければなりません。全ての人が知っているであろうキリストに対して祈り、キリストを愛しなさい。

 特別のほめ言葉も愛も望んではいけません。称賛も愛も、神のみに属すものであり、神に等しいものは存在しないのですから。誰かの愛が自分に集中することを望んではいけません。人との愛にとらわれてはいけません。イエス・キリストの存在のみを、あなたの中に、そして全ての善き人々の中にとどめなさい。神の存在に包まれて、純粋であり、自由でいなさい。神の被造物に深くとらわれてはいけません。

 どんなに主が優しい方か知りたいなら、清く開かれた心を、神のもとへ捧げなさい。神の恵みがあなたのために用意され、あなたを促しているのでなければ、あなたはこのような幸せを得ることはないでしょう。この幸せが得られないのならば、あなたは、神の存在のみに結び付けられた全ての物事から、見捨てられることになるでしょう。

神の恵みが人間のもとを訪れる時、人は全てのことができます。しかし、もし神の恵みが離れれば、人は貧しく、心弱くなり、苦痛のうちに放置されることになります。しかし、このような状況でも、人は落胆しきったり、絶望の淵に沈みきることはありません。逆に心静かに神のご意志を待ち、イエス・キリストをほめたたえながら、自分に起きること全てに耐えるでしょう。なぜなら、冬の後は夏が、夜の後には昼が訪れるから。そして、嵐が去った後には、穏やかな空が現れることでしょう。

The Ninth Chapter

                      The Ninth Chapter

                 Wanting No Share in Comfort

IT IS not hard to spurn human consolation when we have the divine.
It is, however, a very great thing indeed to be able to live
without either divine or human comforting and for the honor of God
willingly to endure this exile of heart, not to seek oneself in
anything, and to think nothing of one's own merit.
     Does it matter much, if at the coming of grace, you are
cheerful and devout? This is an hour desired by all, for he whom
the grace of God sustains travels easily enough. What wonder if he
feel no burden when borne up by the Almighty and led on by the
Supreme Guide! For we are always glad to have something to comfort
us, and only with difficulty does a man divest himself of self.
     The holy martyr, Lawrence, with his priest, conquered the
world because he despised everything in it that seemed pleasing to
him, and for love of Christ patiently suffered the great high
priest of God, Sixtus, whom he loved dearly, to be taken from him.
Thus, by his love for the Creator he overcame the love of man, and
chose instead of human consolation the good pleasure of God. So
you, too, must learn to part with an intimate and much-needed
friend for the love of God. Do not take it to heart when you are
deserted by a friend, knowing that in the end we must all be
parted from one another.
     A man must fight long and bravely against himself before he
learns to master himself fully and to direct all his affections
toward God. When he trusts in himself, he easily takes to human
consolation. The true lover of Christ, however, who sincerely
pursues virtue, does not fall back upon consolations nor seek such
pleasures of sense, but prefers severe trials and hard labors for
the sake of Christ.
     When, therefore, spiritual consolation is given by God,
receive it gratefully, but understand that it is His gift and not
your meriting. Do not exult, do not be overjoyed, do not be
presumptuous, but be the humbler for the gift, more careful and
wary in all your actions, for this hour will pass and temptation
will come in its wake.
     When consolation is taken away, do not at once despair but
wait humbly and patiently for the heavenly visit, since God can
restore to you more abundant solace.
     This is neither new nor strange to one who knows God's ways,
for such change of fortune often visited the great saints and
prophets of old. Thus there was one who, when grace was with him,
declared: "In my prosperity I said: 'I shall never be moved.'" But
when grace was taken away, he adds what he experienced in himself:
"Thou didst hide Thy face, and I was troubled." Meanwhile he does
not despair; rather he prays more earnestly to the Lord, saying:
"To Thee, O Lord, will I cry; and I will make supplication to my
God." At length, he receives the fruit of his prayer, and
testifying that he was heard, says "The Lord hath heard, and hath
had mercy on me: the Lord became my helper." And how was he
helped? "Thou hast turned," he says, "my mourning into joy, and
hast surrounded me with gladness."[14]
     If this is the case with great saints, we who are weak and
poor ought not to despair because we are fervent at times and at
other times cold, for the spirit comes and goes according to His
will. Of this the blessed Job declared: "Thou visitest him early
in the morning, and Thou provest him suddenly."[15]
     In what can I hope, then, or in whom ought I trust, save only
in the great mercy of God and the hope of heavenly grace? For
though I have with me good men, devout brethren, faithful friends,
holy books, beautiful treatises, sweet songs and hymns, all these
help and please but little when I am abandoned by grace and left
to my poverty. At such times there is no better remedy than
patience and resignation of self to the will of God.
     I have never met a man so religious and devout that he has
not experienced at some time a withdrawal of grace and felt a
lessening of fervor. No saint was so sublimely rapt and
enlightened as not to be tempted before and after. He, indeed, is
not worthy of the sublime contemplation of God who has not been
tried by some tribulation for the sake of God. For temptation is
usually the sign preceding the consolation that is to follow, and
heavenly consolation is promised to all those proved by
temptation. "To him that overcometh," says Christ, "I will give to
eat of the Tree of Life."[16] Divine consolation, then, is given
in order to make a man braver in enduring adversity, and
temptation follows in order that he may not pride himself on the
good he has done.
     The devil does not sleep, nor is the flesh yet dead;
therefore, you must never cease your preparation for battle,
because on the right and on the left are enemies who never rest.

[14] Ps. 29:7-12.
[15] Job 7:18.
[16] Apoc. 2:7.

第十章 神の恵みを感謝すること(校正中)

なぜ働くように生まれたのに、休息を求めるのですか。 安楽さを求めるよりも、むしろ忍耐に身を任せなさい。 楽しみを求めるより、むしろ十字架を背負いなさい。

いったい人というものは、何故すみやかに神から与えられる慰めや、 精神的な喜びや、益を受け入れないのですか。 いつでもそれらを得ることができるでしょうに。 神からの恵みは、地上の喜びや肉体的な快楽にまさるものでしょうに。 地上の喜びや肉体的な快楽は、空しく卑しいものです。 しかし、精神的な喜びは、徳から生み出されたものであり、 神によってあなたがたの純粋な魂へそそぎこまれます。 それ自体、真にここちよく、高貴なものです。

誘惑はいつも身近にあります。 そして、誤った魂の自由や自己過信は、 天からの祝福の大きな障害となるものです。 だから、人は望んでいるほど、天からの恵みを楽しめないのです。

神は人に大いなる慰めである恵みを、とても上手にお与えになります。 しかし、人は感謝して神に全てを返さないので、邪悪なことをしたことになるのです。 私たちが、恵みを与えてくださる方に感謝の気持ちを持たなければ、 私たちが全てを恵みの源に返さなければ、 恵みという賜物は、私たちの中へ流れ込んできません。 神の恵みは、十分に神に感謝する人に与えられます。 へりくだった人に与えられる神の恵みは、傲慢な人から取り上げられたものでしょう。

私は慰めを望みません。 慰めが与えられれば、私は悔い改めることができなくなるでしょうから。 私は黙想を好みません。そうすることで、私は傲慢な人間になってしまうでしょうから。 私は喜んで神の恵みを受け入れます。 そうすることで、私はよりいっそうへりくだった精神を持ち、 いっそう悔いあらための意志を強くし、 いっそう喜んで自分を放棄することができるようになるでしょうから。

恵みという賜物によって、神の教えを受けた人、 神の恵みが取り上げられたことで学んだ人は、どんなよいことも、 自分に帰(き)することをあえてしません。 むしろ、自分の不足と空虚さを認めるでしょう。 神のものは神へ、自分のものを自分のもとへ。 神の恵みが与えられたことに対して、神に感謝の念を捧げなさい。 しかし自分自身には、自分の過ちが招いた責めと罰のみを帰(かえ)しなさい。

いつも最も低い場所を占めなさい。そうすれば、最も高い場所があなたに与えられるでしょう。 最も高い場所は、最も低い場所から離れては存在しないのですから。 神の御前においても偉大な聖徒達は、自分達を一番取るに足らない者と考えている人達です。 心の中で謙虚になればなるほど、聖徒達は神の栄光の元で輝くのです。 聖徒達は空しい栄光を望みません。だから、真実と天からの栄光に満たされているのです。 神に守られて安定して、強くおられます。 けして傲慢な人々ではありません。 聖徒達は、自分達が受け取る全てのよいことを、 神のおかげであると考えます。聖徒たちは互いから神の栄光を得ようとはしません。 神からの栄光のみを求めます。彼等が望むことはただ神が自分達の心の中で、 そして、全ての聖徒たちの心の中で、たたえられることなのです。 これが彼等の絶えざる望みなのです。

だから、最も小さい賜物に対しても、感謝しなさい。 そうすれば、あなたはより大きな賜物を、受けるに値するようになるでしょう。 最も小さい賜物を、最も大きなものと、最も取るに足らない賜物を、 特別の賜物と思いなさい。与えてくださった方である神の高潔さに注意をはらえば、 どんな賜物も小さすぎたり、価値の低いものにみえることはありません。 たとえ、神があなたに罰や災いをお与えになっても、受け入れなさい。 私たちの身にふりかかることがなんであれ、 神が私たちの為を思ってなさってくださったことなのですから。

神の恵みをいただき続けたいと思う人は、恵みが自分に与えられる時には、 感謝の気持ちを持つべきです。神の恵みが取り上げられた時には、 忍耐強くありなさい。恵みが自分の元へ戻されるよう、 祈りを捧げなさい。恵みが失われないよう、 注意して、謙虚でありなさい。

The Eleventh Chapter

                    The Eleventh Chapter

                 Few Love the Cross of Jesus

JESUS has always many who love His heavenly kingdom, but few who
bear His cross. He has many who desire consolation, but few who
care for trial. He finds many to share His table, but few to take
part in His fasting. All desire to be happy with Him; few wish to
suffer anything for Him. Many follow Him to the breaking of bread,
but few to the drinking of the chalice of His passion. Many revere
His miracles; few approach the shame of the Cross. Many love Him
as long as they encounter no hardship; many praise and bless Him
as long as they receive some comfort from Him. But if Jesus hides
Himself and leaves them for a while, they fall either into
complaints or into deep dejection. Those, on the contrary, who
love Him for His own sake and not for any comfort of their own,
bless Him in all trial and anguish of heart as well as in the
bliss of consolation. Even if He should never give them
consolation, yet they would continue to praise Him and wish always
to give Him thanks. What power there is in pure love for Jesus - -
love that is flee from all self-interest and self-love!
     Do not those who always seek consolation deserve to be called
mercenaries? Do not those who always think of their own profit and
gain prove that they love themselves rather than Christ? Where can
a man be found who desires to serve God for nothing? Rarely indeed
is a man so spiritual as to strip himself of all things. And who
shall find a man so truly poor in spirit as to be free from every
creature? His value is like that of things brought from the most
distant lands.
     If a man give all his wealth, it is nothing; if he do great
penance, it is little; if he gain all knowledge, he is still far
afield; if he have great virtue and much ardent devotion, he still
lacks a great deal, and especially, the one thing that is most
necessary to him. What is this one thing? That leaving all, he
forsake himself, completely renounce himself, and give up all
private affections. Then, when he has done all that he knows ought
to be done, let him consider it as nothing, let him make little of
what may be considered great; let him in all honesty call himself
an unprofitable servant. For truth itself has said: "When you
shall have done all these things that are commanded you, say: 'we
are unprofitable servants.'"[17]
     Then he will be truly poor and stripped in spirit, and with
the prophet may say: "I am alone and poor."[18] No one, however,
is more wealthy than such a man; no one is more powerful, no one
freer than he who knows how to leave all things and think of
himself as the least of all.

[17] Luke 17:10.
[18] Ps. 24:16.

第12章 聖なる十字架の高貴なる道(校正中)

多くの人にとって、「誰でも私についてきたいと思うなら、自分を捨て、 自分の十字架を負うて、私に従ってきなさい。」([19] マタイ16:24) とはむずかしいことのようにみえる。しかし、それよりもつらいこと は次のような言葉を聞くことだろう。 「のろわれた者どもよ。私を離れて悪魔とその使い達とのために 用意されている永遠の火のなかにはいってしまえ。」([20]マタイ25:41) 十字架の言葉を聞き、喜んでそれにしたがう者は最後の審判の日に、永遠の 断罪の言葉をおそれる必要がない。我が主が審判のためにおりた時、 この十字架の印は、天国への印である。十字架の信徒であった者は皆、人生の間中、十字架にはりつけられた者と共にあった者であり、審判者 たるキリストにおおいなる信頼をよせるであろう。

何故十字架を背負うことをおそれるのか。十字架を通して、神の王国を勝ち とることができるというのに。十字架にこそ、救済はあり、十字架にこそ人生 があり、十字架にこそ、敵からの守りがあり、十字架にこそ天上の甘味が 吹きこまれているのに。十字架にこそ、知性の強さがあり、十字架にこそ、魂 の喜びがあり、十字架にこそ、もっとも高貴な徳があり、十字架にこそ完壁 な神聖さがある。十字架以外に魂の救済も永続する人生への希望は存在しない のに。

だから、あなたの十字架をとり、主イエスに従いなさい。そうすれば、永遠の生に入れるでしょう。主イエス自身が、自らの十字架をとる前に、そのやり方をあかした。そして、十字架の上であなたのために、死んだのだ。だから、 あなたも自分の十字架を背負い、その十字架の上で死ぬことを切望しなさい。 もし、あなたが主と共に死ぬのであれば、あなたは主とともに生きることになり、主と苦しみを共有すれば、主の栄光もわけあうことになるのだ。

ごらんなさい。十字架にこそ全てはあり、十字架の上であなたが死ぬことに すべては依存しているのだ。聖なる十字架と日々の屈辱以外の方法は、 人生にも内的な平和においても存在しない。望むところにでかけ、望むものを 探しもとめなさい。あなたは、より高貴なやり方もあまり高貴でないが安全なやり方も見いださないだろう。むしろ高貴な十字架にいたるやり方を発見するであろう。あなたの意志や判断にあうように、すべてを秩序だてなさい。 そうすれば、あなたはきづくだろう。少々の苦しみはいつも望むと望まないと にかかわらず、耐えなければならないと。そうすれば、あなた自身の十字架 もみいだすだろう。

肉体上の痛みを経験するか、魂の苦しみを経験するかどちらかであろう。 時々あなたは神に見捨てられるだろう。時々自分のことで人々に悩まされるだろう。もっと悪いことに、自分自身にうんざりするだろう。あなたは逃れることができない。あなたはどんな治療法にもどんななぐさめにも開放されず、ただ神が望むかぎり、その苦しみに耐えなければならないだろう。というのは、神があなたに慰めなしに神の試みに耐えることを学ぶのを望んでおられるからだ。神はあなたにすべてを神に投げだして、より苦しみに謙虚になることをのぞんでおられる。誰も完全に心から主キリストの情熱を理解できない。ただ主キリストと同様に多くをくるしんだ者だけが理解できるのだ。

十字架はそれゆえ、いつも用意されている。十字架はあなたをいたる所で待ちうけている。あなたがどこへ行こうと、あなたは十字架をのがれることはできない。というのは、どこへあなたがいこうと、あなたは自分自身を連れていき、自分自身をみいだすからだ。あなたがいるところを見廻してごらんなさい。上にも下にも、あなたがいなくても、あなた自身の中にも、あなたはいたる所で、十字架をみいだすであろう。そして、平和を保ちたいと思い、外の世界の王冠に値したいと思うなら、あなたは全ての場所で忍耐を保たなければならない。

もし十字架を喜んで背負うのなら、あなたは望むべき目的地へ導かれる。 そこには、ここにはある苦しみがもはや存在しない。もし喜んでではなく、 十字架を背負うのであれば、自ら重荷をつくりだし、苦しい道のりを歩むことになる。 たとえ耐えなければならないにもかかわらず。ひとつの十字架をさければ、 別のおそらくもっと重いものを見いだすことになる。死すべき運命の人間が 避けることのできないものを避けれると思うのか。いったいどの聖人が 十字架も神の苦しみもなしでいられたろうか。主イエス・キリストでさえ、全ての時間、自身の情熱の痛みをわかっていなかった。 「キリストは苦しみを受けて、三日目に死人の中からよみがえる。」 ( [21] ルカ 24:46) この聖なる十字架への高貴なる道のりより、他のやり方をどうやって探すのか。

主キリストの全生涯は、十字架と殉難の道だったが、あなたは自分のために 休息と安楽への道をもとめるのか。もし、苦しみ以外の道を探しもとめるならば、あなたは自分をごまかしているか、あやまっている。というのは、この死すべき運命の人生は惨めさでみちており、あらゆる面で十字架の印がみられるのだから。人間が霊的に進歩をみせればみせるほど、十字架はしばしば重くなる。なぜなら、人間の(神への)愛は増大し、彼の流罪の痛みも増大するのであるから。

しかしそのような人間は、多くのやり方で苦しめられているにもかかわらず、慰めへの希望がないわけではない。なぜなら、そのような人間は、自分の十字架に耐えることによって大きな報酬があることがわかっているからだ。彼が十字架を喜んで背負うかぎり、苦しい試練は神からの慰めにかわるからである。それに、肉体が苦悩になやまされればなやまされるほど、魂は内部の栄光によって強くされるからだ。頻繁に神の試みへの愛や主キリストの十字架に従いたいという希望における重荷によって、人間は強められ、人は喜んで嘆きや痛みのある状態であることを望もうとする。なぜなら、人間はキリストのためにより苛酷なことに耐えれば耐えるほど、神により受け入れられるようになるだろうと信じているからだ。

人間の美徳がではなく、キリストの栄光が問題なのだ。キリストの栄光によって、十字架が運べるようになり、魂の熱意によってもろい肉体が自然にきらったり避けたりすることを愛したり、それらを得ることを学ぶのだ。

十字架を背負い、十字架を愛し、肉体を苦しめ、肉体を従属させ、栄誉を遠ざけ、侮辱に喜んで耐え、自分自身を軽蔑し、喜んで捨てられ、逆境や喪失などに耐え、地上では繁栄する日々をのぞまない。これは人間のやり方ではない。もし、あなたが自分を頼みとするなら、あなたにこのようなことはできないだろう。しかし、あなたが主を信じれば、強さが天上からも地上からも与えられ、肉体はあなたの言葉に従うだろう。もしあなたが誠実さに武装され、キリストの十字架の印がついていれば、あなたは敵を悪魔でさえおそれないだろう。

自分をよい、誠実なキリストのしもべであるかのようにふるまって、我が主の十字架に勇敢に耐えなさい。神は愛からあなたのために十字架にかかったのだから。この惨めな人生で、多くの逆境とトラブルに耐える覚悟をしなさい。あなたがどこへいようと、厄介で惨めな人生にはいつもなるのだから、あなたがどこへ隠れようとあなたは十字架を発見するだろう。神の試みや人生の嘆きから逃れる方法はなく、耐えるしかない。

神の聖さん杯を愛情をもって飲みほしなさい。主の友人であり、主の一部であり続けたいならば。神の気にいるようになすつもりなら、神に慰めをゆだね、神のなすがままにまかせなさい。 あなたの方では、苦しみに耐え、苦しみをもっとも大いなる慰めと考えられるようにしておきなさい。というのは、たとえあなたが一人で苦しみを受け入れなければならないとしても、この人生での苦しみは、やがて来たるべき栄光とは比べものにならないほど価値がないのだから。

あなたがキリストのための苦しみを、甘く受けいれられるものとみなせる段階まできたら、自分を幸運だと思いなさい。あなたは地上で楽園をみいだしたのだから。 しかし、苦しみがあなたをいらだたせ、あなたがそれから逃れることを望むのなら、あなたは不幸だろう。あなたが逃れようとしている苦しみは、至る所まであなたについてくるだろうからだ。考えなければならないことに考えを集中させなさい。つまり、苦しみや死に。あなたはそうすればよりよい状態にいたることができ、平安をみいだすだろう。

あなたがPaulと共に第三の天国に連れていかれたのにもかかわらず、 それゆえあなたは苦しみにたいして保証されていなかった。 主キリストはいわれた。 「私の名のために、彼がどんなに苦しまなければならないかを彼にしらせよう。」( [22] 使徒行伝 9:16) もしあなたがイエスを愛し、イエスに永遠に従うつもりなら、苦しみはあなたのもとへ多くを残す。

もしあなたがイエス・キリストの名のもとで、なにか苦しむ価値があるなら、おおいなる栄光はあなたのもとへ蓄えられる。神の聖人すべてとの大いなる楽しみ。 神の聖人すべてにたいするあなたの偉大なる啓示。というのは、すべての人が忍耐をたたえるからだ。たとえ、それを実践したいと思う人が、ほとんどいなくても。

よい理由から、あなたはキリストのために少し喜んで苦しまなくてはならないだろう。 なぜなら、多くの人が世界でより苦しんでいるのだから。 あなたは死すべき運命の人々を導かなければならないことにきづきなさい。より多くの人が主のために死ねば、より多くの人がキリストの元で生きはじめる。

もし人間がキリストのために重荷に苦しむようにしなければ、天国を楽しむ者はいなくなる。神に受け入れられる者はいなくなる。 Nothing is more acceptable to God, nothing more helpful for you on this earth than to suffer willingly for Christ. もしあなたが選択をしなければならないなら、多くの慰めを楽しむより、キリストのために苦しむ方にしなければならない。というのは、そうすればあなたはキリストのようになり、多くの聖人のようになれるからである。我々にとって得のあることや進歩は、多くの楽しみや慰めにあるのではなく、むしろおおいなる苦悩や苦しみに耐えることにある。

苦しみよりも人間の救済によく有益であることがなにかあれば、キリストがことばや例でしめしてくれたはずである。しかし、わが主はあきらかに彼にしたがって十字架を背負いたいとのぞんだ弟子たちに熱心にといたのである。 「だれでも私についてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて私に従ってきなさい。」( [23] ルカ9:23)

私たちは多くのかかれたものをすべてよんだり、さがしたりしてきたが、これを最後の結論としなさい。多くの苦しみを通して、我々は神の王国にはいらねばならない。

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