オリザさんとラジアンさん

夢の中の対話シリーズ

結城浩


オリザさん

「私はもう主人にはうんざりなんですよ」とオリザさんは言った。

オリザ「主人はあんな風でしょう。結婚当初はまじめで良い人、って誤解していました。落ち着いた深い考えの人、って思っていたんです」

結城「仕事に熱心だということですが」

オリザ「でも、仕事ばかりで。生活の楽しみというものを知らず、実験・実験・実験、論文・論文・論文の毎日でした。はじめは私も主人を支えて、という殊勝な気持ちを持ったこともあります。でも最近はうんざりしてしまって」

結城「研究で毎日遅くまで?」

オリザ「研究っていっても何やってるんだか。家にいても気詰まりだから、研究室にこもっているのかもしれません」

結城「…」

オリザ「一度、会社のほうから管理職への誘いという話があったそうなんです。直接的には上司の方から申し出があって、もし希望するならば根回しするから、と」

結城「なるほど、上司がキャリアパスを考えてくれたわけですね」

オリザ「そうなんです! それなのに、あの人ったら、すぐに断ったんですよ。もう驚きでした。私がそのことを知ったのは、すでに主人が上司へ返事をした後でした。そもそも、私は同僚の奥さんからうわさとして聞いたんですよ!」

結城「おやおや…」

オリザ「ひどいと思いませんか」

結城「…」

オリザ「私、主人に聞いたんです。どうしてそんなことを私に一言も言わずに決めるのかって」

結城「上司がそのようにいってくれたということは、ご主人…ラジアンさんのことを高く評価しているってことですよね」

オリザ「まあ、そうですけれど」

結城「技術的な現場にいる人が管理職になりたくない、と思うのはめずらしいことではないと思いますよ。ひとつには自分はまだ現役でやりたいことがたくさんあるんだという意識、もうひとつは人を管理するよりも直接研究対象と向かい合っていたいという気持ち…」

オリザ「それは私もわかっているつもりですけれど、一言も相談なくっていうのは…」

結城「ほんとうのところ、ご主人はどんなことを考えていらしたんでしょうねえ」

オリザ「よくわからないです。わたしががつんと詰問したので、主人もしゅんとしちゃっていました。まあちょっとわたしも言い過ぎましたけれど。でもねえ…」

結城「ふうむ」

オリザ「でもね、もともと研究職といってもヒラなわけですよ。それを続けていてもどうなるものでもなく、経済的にも厳しくて、子供なんてとうてい考えられません。私ももうすぐマル高になるし、うんざりなんですよ、主人には」

結城「オリザさんもお仕事をやっているんですよね」

オリザ「ええ、共稼ぎですね。電機メーカーで技術文書の取りまとめをやっているんですが、わずかですけれど私の収入は欠かせないです」

結城「なるほど」

オリザ「そんな風に私の稼ぎがあるから、夫婦でやっていけるんですよ。服だって必死に着まわしを考えて考えて。でもときどき情けなくなります。仕事も、いつでもやめてよいと思っていれば会社に対していいたいことも言えるんですけれどね。下手なことを言ってやりにくくなったらいやなので、忍の字ですね。ひたすら」

結城「ふむふむ」

オリザ「私、どうしてあんな人と結婚してしまったんでしょうねえ。もっとしっかり将来のことを考えてくれないと…。研究もいいんですけれどね。生活に張りがないというか、ああ、あの人と結婚してよかった、という気持ちにもうなれないのかもしれません」

結城「おやおや…。ご両親はお近くに住んでるんですか?」

オリザ「いえ、四国です。…私の父は実業家だったんですけれど、あ、まだ健在ですが、なんというか堂々としたものでした。口数は少ないけれど、きっちり仕事はやるし、収入もしっかりあって、母に生活上の不自由を感じさせたことはありませんでした。もっとも母は父の女性関係でしょっちゅう愚痴っていましたけれど。でもいつも洋服はばんばん買うし、母は勝手だなと私は思いましたね」

結城「それで、ご主人のやり方には不満を感じていると」

オリザ「ええ。自分がどうなりたいのか、将来の計画はどうなのか、それがさっぱり私にはわからないんです。その上お金があるわけでもなく、昇進の話もあんなふうに勝手に断ってしまうし」

結城「どうして断ったんでしょうねえ。いや、断るというのは理解できなくはないんですが、それをあなたに黙って断った理由は…」

オリザ「そんなの、わかりません」

結城「あなたに反対されると思ったんでしょうか」

オリザ「もちろん反対しますよ!」

結城「ふうん…」


ラジアンさん

「どうもね、わたしは口が苦手でね」とラジアンさんは言った。

ラジアン「論文を書くのはいいんだが、口頭で発表というのはどうも苦手でね」

結城「実験が一段落したそうですが」

ラジアン「そうそう、今年に入ってずっとやっていた実験が一段落して、データもね、意外によい結果が出たので、今まとめているところなんだよね」

結城「よかったですね」

ラジアン「だから早く研究室にもどりたいんだが、うちの妻がこの仮想キャンプにどうしても来たいというので、しかたがなくね。人の話を聞いてコネも大事だなどと妻は勝手なことばかり言ってるんだ。私はそういうんじゃなく、早くいまの結果をまとめて仕上げたい気持ちがあるんだが。でも、まああまりにもうるさく言うのでついてきたんだな。でも、だめだな。ここにいる人たちはみな避暑気分で来てるな」

結城「ああ、まあそうですね。避暑しながらおしゃべり、がここのテーマのようなものですから」

ラジアン「私ははやくね、自分の結果をまとめたいんだ」

結城「奥さまも働いていらっしゃるのですよね。確か電機メーカーにお勤めと」

ラジアン「ああ、うちのは大した能力もないのにいろんなことに首をつっこんで、家庭のことをかえりみず。まあそのため子供もできなくてな。気楽でいいといえばいいが」

結城「昇進の話をお断りになったとか」

ラジアン「うちのが言ってましたか。まだねそういう時期じゃなんだよなあ。現場にいないとわからんことが多いんですわ。人を管理し始めたら、もう一線にはいられない。若いのもいることはいるが、やっぱりね、自分の研究は自分でまとめないことには。私は妻が上司に根回しして今回の話を出したんじゃないかとまで思っていてな。タイミングが良すぎる」

結城「まとめるのは大変ですか」

ラジアン「そうだな。うっかりすると仕事の成果を若手にとられるし。今回の昇進の話では、妻の無理解があって、つまりは私の仕事のことを妻はまったく理解していないということでな。私は妻をひどくしかったのだが、しゅんとしちゃってな。まあちょっと私も言い過ぎたかもしれん」

結城「あ、ええと」

ラジアン「妻もね、もう少しね、家庭というものをかえりみてくれないことには。私の実家の母などは、三人男兄弟を立派に育てたのだが、内職もして。しかし家庭の中ではいつもにこやかというか母性的な雰囲気があってだね」

結城「はあ…」

(2004年12月17日)